寒かった。
微妙に薄暗い書斎の一室で、彼は膝掛けに乗った重厚な藍色の本に視線を下ろしていた。
彼の定位置である窓の縁には、沢山の山積みされた書物に片時も手放す事のない白銀の杖。
書斎はひんやりとした空気に覆われ、彼の小さな体を下から冷やしていく。だが、彼は平然とした顔で左手でページを捲る。
その状況が、何時間ほど経ったのだろうか。
しばらくしてカーテンの向こう側から、僅かに聞こえる鳥の鳴き声と柔らかい陽射しによって彼は、朝だという事を認識した。
ゆっくりと見知らぬ言語の活字から視線を外し、顔をゆっくりと上げた。
そして本に銀細工の枝折りを挟んで抱え、側に立て掛けられた杖を取ると積まれた書物の隙間から抜け出した。
書斎の扉を音を立てないように開く。まだ寝室で眠っているカインやルナリーへのせめてもの配慮であった。
そして、足音を立てないように二階の萌黄色の絨毯の上を歩く。そのまま大広間の階段を降りようとした。
その時、ふと気が付いたように空を見上げる。だが、昇り始めた太陽の逆光のため良く見えない。
手で光を遮りよく目を凝らしてみると、空の様子が鮮明に見えるようになった。
「今日は晴れるな……」
思わず彼はそう呟いていた。
いつの間にか、冬が来ていた。
彼にとっては誰かと過ごす久しぶりの冬。
凍り付くような季節に孤独では無く誰かが側にいるのだ。
誰かが側にいるのが、彼には当たり前では無く特別な事。
だがそれもいつか終わってしまう事は知っていた。
有限なこの世界。
そして呪われしこの血。
激しく憎みさえしたこの瞳ともう一つ。
母親と過ごした最後の冬。
それはもう覚えていないのだから。
記憶の片隅に残りさえしない最初の冬。
………世界は眠り始める―――――。
彼は階段を降りると、そのまま食堂へ向かった。
今日は珍しく気分が良かった。この突き刺さるようなような真冬の寒さのせいであろうか。普段、憂鬱な時間帯のはずなのだが、今日はさっぱりとしている。
彼は頭を掻き、食堂の扉を開いた。
開いた途端、熱気が彼の元に開いたところから漏れ出すように押し寄せてきた。どうやら、暖炉が燃えているらしい。
それと同時にスープのいい匂いが漂ってくる。
食堂のテーブルを見ると三人分の食器が並べられていた。
「あれ……?」
こんな朝だというのに、リックが朝食の準備をするのは早過ぎると彼は不審に思った。
今日だって珍しく早めに食堂に来たにすぎないのだ。
まさか、それを知って早めに用意する彼ではない。
必ず『ルナリー様とカイン様がいらしてから』と言うに違いないのだ。
不審に思いつつも、取り敢えずは彼は自分の椅子に座る。杖は横に立て掛け、本はテーブルの上に置く。
スープ皿にはまだ中身は盛られていない。
まぁリックの事だから必ず美味しいものであることは保証されている。
(食事ねぇ……)
頬づえをつきながら、本来必要のない生理的欲求について考えていた。
不老不死のため本来食事は必要としていなかった彼にとって、ルナリーとの生活は大幅に彼の生活を変えていった。
いや、正確に言うと昔家族が生きていた頃の生活に戻っただけなのであるが。
母親が寂しがるという事で、彼は昔食事を取っていた。母親がルナリーに変わっただけで殆ど昔の生活と変わっていない。
母親から聞いた事によると父親も同じように食事は取っていたらしいが、彼にとって父親の事などどうでも良かった。
恨んでいるとか憎んでいる……そんな物は無く、ただ純粋に興味が無いだけである。
食事に関しても最初はそのような気持ちであったが、結局の所それよりかは舌を楽しませるという意味で食事をするようになってきた。
「別にいいんだけどね」
「いいって何が? ウィルくん」
突然真横から聞き慣れた声が聞こえてきた。振り向くと、そこには髪を軽く一つにまとめた一人の少女が立っていた。
両手には琥珀色の液体が入った中型の深い鍋。ふと気が付くと先程までしていたスープの匂いはそこからするようだ。
「いや、別に」
ウィルは何事も無かったように言い繕う。
少女、ルナリーはあまり気にした様子は無いようで、鍋をテーブルの上の藍色の鍋敷きの上に乗せた。
「ならいいんだけどね」
そう言いながら、鍋をお玉でかき混ぜるとウィルの目の前の皿から順に注いでいった。
ウィルは皿に注がれた琥珀色の液体を覗いてみた。
透き通ったアクの無いスープの中に玉葱の煮込んだ物が入っている。
「オニオンスープか」
「うんっ」
どこか嬉しそうに話すルナリーを見ながら、彼は台所から出てくるスケルトンの姿に気が付いた。
「おはようございます〜、坊っちゃん。今日はルナリー様がお手伝いさんなのですよ〜」
「……あぁ」
どこかとりとめのない会話をし、彼は初めて側にある鍋の下の藍色の鍋敷きに気が付いた。
「…………っ!?」
ルナリーが鍋敷きだと思っていた藍色のそれは、鍋敷きにしてはやけに厚くそして普通は正方形の所、それは長い長方形をしていた。
ウィルは慌てて僅かに軽くなった鍋を動かし、そこに敷いてあった物を両手に掴む。
「…………こ、焦げてる」
ウィルの両手にあるそれ、本は丸く焦げ目が残っていた。どうやら高熱の鍋を乗せたためだと考えられる。
呆然とその焦げ茶色の丸い模様を見つめるウィル。そしてその横では引きつった微笑みを浮かべ、お玉を握るルナリー。
そしてスケルトンの無情な一言がゴングを鳴らした
「……坊っちゃん、鍋敷きにしては随分変な形ですなぁ」
「あ〜、もう我慢ならん!! 弁償しろぉぉぉぉ!!」
そう言いながらウィルは烈火のごとく立ち上がり、怒鳴りつけた。
ルナリーはその声に最初怯みはしたが、すぐに頬を膨らまして反論する。
「なによぉ、そこに置いておくのが悪いんでしょ!!」
「確認くらいできんのか!」
「鍋で目の前が見えにくくなっているんだからしょうがないでしょ!」
「もう少し周りに気が使えないのか!」
「むむむむ、もう少し妥協くらい知りなさいよね〜!!」
どちらも一歩も譲らずに怒鳴りあっている中、一人だけ内股でオロオロしているスケルトンの姿があった。
「あぁ〜、どうしましょうか〜」
左右行ったり来たりをワゴンを引いて繰り返している。
そんな時扉を開く音が聞こえた。もちろんテーブル前で戦っている二人の耳には届かない。
そこから黒いローブに腰まで届きそうな金髪を三つ編みにした青年の姿が現れた。
「カイン様!?」
泣きそうな声でカインにすがりつく骨。
「あぁ、リック君おはよう〜・」
相変わらず気楽に微笑む彼の姿は、リックにとって天使以外の何者でもなかった。
「助けて下さい!! ルナリー様と坊っちゃんが……」
そう言いながらリックは、後ろでテーブルを叩いて威嚇しあいながら、喧嘩する二人の姿を手で示す。
「朝っぱらから頑張っているねぇ〜。いいもんだよ若い二人が痴話喧嘩なんて。………なーんて、ウィルは若くないんだよねぇ」
どこか嬉しそうに一人で突っ込むカイン。
だがスケルトンのすがるような瞳に慌てて、すぐに真剣な声に戻す。
「そうだね……、取り敢えず何とかしなければ。ウィル! 本くらいいつでも買えるだろう。今回くらい勘弁……」
「できるか!? ……今日という今日は我慢ならん! 決着つけたる」
怒りを露にした凄い形相でカインを睨み付けるウィル。
それを見て何事もなかったようにカインは「御飯にしましょう」と微笑んだ。 リックはますます困った顔をして、怒鳴り声をバックに食事の準備を始めた。
「どうしようもないんですか……」
そう心配そうに聞くリックに対し、カインは
「のんびり食事が先かと思いますよ」
と微笑んだ。
リックは現実逃避をしたカインのその言葉にため息を一つつき、食事の用意と台所へ向かった。
ちらりと見ると丁度、自分の主人と良家のお嬢様が互いの髪の毛を引っ張り合いながら戦っているところであった。これ程情けなく、悲しい事がこの世であっただろうかと考え、リックは切なくなってしまった。
「仲が宜しいのか、悪いのか……。分かりませぬ」
そう呟きながら、白い骨をからりと寂しく鳴らした。
傍観者と言うべきなのであろうか。金色の髪を靡かせる青年は、目の前で互いにそっぽを向き続け、朝食を食べ続ける友人をにこやかに眺めていた。良く見るとウィル、ルナリー共に髪の毛は抜けなかったもののボサボサになってしまっていた。
「………」
ルナリーは膨れた顔のまま、無言で琥珀色のスープを飲み続ける。少し前までは、名門でもあるアリシオード家の継承者だった人間なのにその威厳のかけらもない。これではまるで喧嘩して帰ってきた下町の子どものようだった。
そしてその横では同じく膨れた顔をしてサラダをつつくウィル。時折レタスやトマトが皿の上から勢い良く跳び跳ねるのが見える。彼は、それをフォークで勢い良く刺し、口へと放り込む。
「お行儀悪い……ウィル君」
「君に言われたくないよ、狸娘」
緊迫した雰囲気の中、おろおろと不安そうに二人を交互に見つめるのがリックだった。
「………おかわり」
「おかわり」
「は、はい、今すぐっ!」
慌てて、リックはすぐ隣にいたルナリーのスープ皿を手にした。だが、ウィルはそれを見ると同時にトーンを低くした声でリックに文句を言う。
「……主人はどちらだったっけ」
普段リックに対してそのような従属関係を気取らないウィルだが、この時ばかりはその冷静を欠いたリックの行動が裏目に出たようだ。
その言葉にリックは己の執事失格な行動に慌てて気が付く。
「も、申し訳ありません! えー、では、坊っちゃんのを先……」
「リックは、レディファーストを知らないんだ……」
ウィルの皿を受け取り、ルナリーの皿を置こうとしたリックに対し、ルナリーが頬杖を付きながら彼を座った目で見つめた。その静かな言い種にリックはたじろぐ。レディファーストというよりは、その気迫に負け、リックはルナリーの皿を置く事が出来なかった。
「ではルナリー様を……」
そう言いながら受け取ったウィルの皿を置こうとするが。
「主人は」
「レディーファーストを……」
「………」
冷や汗がどこからか零れる感覚がする。リックはこのような葛藤に苦しめられるとはまだ修行がたりぬと思いながらも、この現状に恐怖した。
すぐ側では、彼の主人とお嬢様がどちらを選ぶか待っていた。
「しゅじん……」
「れでぃ……」
だが、それもここまでだった。
「いい加減にしてくれ!」
「いい加減にしてよっ!」
ほぼ同時にテーブルを叩き、勢い良く立上がった。
そして互いに相手を指差しながら、ルナリーはウィルを見下ろし、ウィルはルナリーを見上げほぼ同時に叫んだ。
「リックが困ってるでしょ!」
「リックが困っているじゃないか!」
「あ……坊っちゃん」
「大体、居候ならもう少しおとなしくしたらどうだい。いつもいつも人の家に損害を加えて……。挙げ句にリックを困らせるのかい」
「あぁ……ルナリー様」
「なによぉ! いつもいつもリックをこき使ってっ。たまには料理とかお洗濯とかしたらどうなの。本の一冊二冊駄目にしただけで怒るし!」
「あぁぁ、カイン様」
「美味しいねぇ、たまにはゆっくりするもんだよ」
「………」
リックはすべてを諦めたような顔で二人の皿を掴んでいた。先程やっと収まったかと思われたというのに、二人はまた口喧嘩を始めた。
止めに入るがリックの制止の言葉は全く耳に入らないようだ。それどころか余計に激しくなっていっているようにも感じる。
それでも止めねばならない。それが彼に課せられた運命なのだから。
そんな時だった。
酷くせかせかしているノックの音が玄関先から聞こえてきた。
髪のつかみ合いになっていたルナリーとウィルの手が止まる。
「お客さんですか、珍しい……」
カインは珍しく目を細めた。そして、牛乳瓶眼鏡をその細く白い指で軽く押し上げる。
珍しいお客にウィルは戦意を削がれたようだった。
「見てくる……」
ウィルは今まで掴んでいたルナリーの長い髪を離し、不思議そうな顔で食堂から出て行った。ルナリーとリック、そしてカインもそれに続く。
その間にも、ノックの音はせわしく聞こえ続ける。
玄関の大広間に出ると、随分と明るくなった陽射しが階段から廊下へと零れ落ちていた。
ウィルは、扉の鍵を外しゆっくりと扉を押して、僅かに開いた。隙間から真っ白い眩しい光と共に人影が見える。
そして光が収まったその場所には薄汚れた深緑のローブを羽織った老人が一人立っていた。
老人は酷く神経質そうな顔をし、ウィルの姿を細かに見ていた。
どこかやつれたような目は、彼を不気味にも不健康にも見せる。
「Tanaa,kasudewill」
そして、老人は不思議な言葉をブツブツとウィルに何言か呟いた。
「何て言ってるの?」
少し後ろで聞いていたルナリーは、今までに聞いた事のない未知の言葉に不思議な顔をした。その言葉にカインは、ルナリーの側へと歩み寄り、その老人を見つめた。
「神の言葉ですよ。古代語とも言われます」
「いわゆる、教団語だ……」
ウィルは、不信に満ちた顔で老人を見つめながら、カインの言葉に補足を入れた。
「分かってもらえているようで、嬉しいよ」
突然、老人がふっと微笑むと教団語を止めた。
その瞬間扉が勢い良く開いた。ウィルは潰されないように後ろへと下がった。
容赦なく真っ白い真冬の空気と光が差し込んで来た。
突如、その中央に一つの印が浮かび上がってきた。
それは、互いに向き合っている二羽の鳥が今にもはばたこうと翼を広げている。そんな印だった。
ウィルはその印がなにかよく知っていた。
いつかはやってくるとは思っていた、危険な印。
光の向こう側から司祭服を着た複数の人間がウィルの前に道を作るかのように整列した。
そしてその向こうに印。そしてどこか酷く懐かしい感覚。
「お初にお目にかかるね。ウィル・S・ルシファー」
遥か先から聞こえてきたのは、まだ幼い声。光に目が慣れ始め、その姿がゆっくりと見え始めてきた。
金の延べ棒を伸ばしたかのように光輝く、髪の毛。不死の象徴ともいえようエメラルドのような瞳。その瞳は幼さは消え、その代わりはっきりとした意思と人を引き寄せる魅力に満ちていた。
手には、鳥が水晶を抱える金色の杖。ウィルはあれがなんなのかよく知っていた。そして他の物とは明らかに違う大きな真っ白い司祭服に金色の印。
まだ幼い体に大司祭の服装を纏った彼は、どこか憎しみを含んだ目でウィルを見つめていた。
そして声変わりのしていない純粋な高い声が再び響く。
「僕は全教団を支え統治すべき、シリウス・G・ニコラウス二十世」
「ニコラウス……」
ウィルは、目の前にいる年端もいかぬ少年の名を繰り返した。
その名は知っていた。いや忘れるわけがない。
「ニコラウスって、あれでしょ。あの教団の偉い人」
そんなウィルを尻目にルナリーが不思議そうに聞き返す。
その言葉に対して、ウィルの代わりに後ろに控えていたカインが口元を綻ばせながら、答えた。
「その通り。ニコラウスというのは、この大陸を事実上支配している教団の創始者の名です」
「あそこにいるのは二十代目のニコラウスになる」
ウィルは目の前の少年、ニコラウス二十世から目を離す事なく呟いた。
だがニコラウスという名を出した途端、ニコラウス二十世の余裕の見えた表情が一瞬にして消え去った。
「ニコラウス様の名を堕天使の末裔なぞに軽々しく口にしてもらいたくないね。大体、僕はニコラウス二十世ではなく、シリウスだ」
そう言い放つとシリウスは、神の杖と呼ばれる金色の杖をウィルに向けた。
「何をしに来たのかわかっているんだろ」
「…………」
ウィルは一言も答えない。
だがシリウスは、それで十分と言わんばかりに静かに微笑んだ。そしてウィルの後ろに控えるカインに目を向けた。
カインはその視線に気が付くと、にこやかな言葉を返した。
「シリウス様は、相変わらずですね」
その余裕のある言葉に、シリウスは顔色一つ変えることはない。
「………しがない巡礼者か」
「えぇ、私は巡礼者ですから。一日に六回必ず教団にお辞儀しますよ。信仰深いと言ってもらいたいものですね」
しかし、シリウスはふぅとため息をつき、呆れた顔をした。
「吸血鬼の血が混じっている輩に、信仰などあるわけないだろ」
「どうせ、裏切り者ですから」
カインはそういうと、ゆっくりと瞳を閉じた。これ以上語ることはないと言わんばかりに。
シリウスは改めてウィルに向き直る。
「教団の名にかけて、神を裏切りし悪魔を浄化しにきた」
「勝手にしてくれ……」
ウィルはほとんど疲れ切った顔でそう言った。その顔には、いつもの呆れ顔も余裕もみられなかった。
それはまるで、人生全てに疲れたかのようでもあった。
だが
「……悪魔?」
ただ一人状況を理解していない少女がいた。
ルナリーだった。
ウィルの横で不思議そうに首を傾げながら、二人を見ていた。
「そう、彼は悪魔だ」
シリウスが彼女の言葉に答える。それは確信を込めた言葉だった。
「昔の話だ」
急にウィルはその言葉に不機嫌を示す。
「今も変わることはないよ。だから浄化する」
何故こんな当たり前の言葉に不機嫌になるのだろうか。分からなかった。分かり切っていることなのに。
「人間ごときに呪いは、浄化はできない。もうニコラウスは何人も来た。けれども一人もボクを殺すことは出来なかった」
「やってみなければ分からないだろ! 貴様は神の敵だ!」
だが、ウィルはどこか寂しい声で言った。
「………神は、ボクの敵だよ」
「くっ」
シリウスはウィルを睨み付け、杖を振りかざした。
杖は逆光を受け、眩しく輝く。それはまるで太陽のようだった。
「ニコラウスの名にかけて、ルシファーを浄化する」
そして、一歩踏み出したその瞬間だった。
長過ぎる司祭服の裾が足元に絡み付く。
「あっ」
対処する間もなく、小さな間の抜けた声と共にシリウスが勢い良く倒れ込んだ。
そして、響き渡るゴツンと痛そうな音。
「シ、シリウス様!?」
「お怪我はありませんか!?」
慌てて駆け寄る司祭達。先程ウィルに話しかけてきた老人がシリウスを助け起こすと、心配そうに頭を撫でた。
「だから、やめましょうと言ったではないですか。シリウス坊ちゃまのお気持ちは分かりますが、相手はなんせあのルシファー。まだ即位して間もないシリウス坊っちゃまが勝てる相手ではございませぬ」
シリウスはゆっくりと手を借りて起き上がりながら、困った顔をしていた。先程の殺気や雰囲気はもう微塵も感じられない。
「けれども……」
「けれども! ではございません。ニコラウス様もお亡くなりになられ、もう貴方様しかおりませぬ。シリウス坊ちゃままでお亡くなりになられたら、私めや残された信者達はどうすれば宜しいのですか?」
後ろでシリウスを囲むようにいた他の司祭たちが、同時にうんうんと頷く。
シリウスはその光景を見ながら、複雑そうな顔をして何か悩んでいる。
「忘れられているね、ウィル君」
そんな状況の中、ルナリーがぽつりと呟いた。
「別に………。というか気が抜けた」
ウィルはそんなルナリーの言葉に、呆れたようにため息をついた。
その間も入り口付近で固まっている教団の人間達は、何か真剣そうに話をしていた。ウィルは取り敢えず、ちゃんとこの場所に立っていないと失礼になるのでは、といった事を考えながら、その光景を見ていることにした。
チュンチュンと小鳥が鳴く声が玄関の向こう側から聞こえ、柔らかな光が差し込むこと約十分程。話が終わったのか、シリウスはウィルの方に向き直った。丁度彼は退屈そうに欠伸をしていたところだった。
「今日の所は、見逃してやる。今度会ったときが最後だからな!」
そう杖を振りかざし叫ぶと、ウィルを一睨みした。そして裾をたくし上げ、早足で去っていった。シリウスが館を出ると最後まで残った司祭がこちらに一礼し、ゆっくりと扉を閉めていった。
そして、誰も居なくなった。
「なんだったんだろう………」
ウィルは、先程までの騒がしい状況が今一つ掴めず、頭を軽く掻いた。
今夜は明るい。
ウィルは淡い光に本の活字が照らされるのを見て、そう思った。光はゆらゆらと緩やかな曲線を描き、どこかへ消えていく。
いつもの場所に沢山の書物。けれども今日の朝に積まれていた物とは全く別の物だった。
ウィルは側に置かれていたランタンを手に取り、中にある蝋燭の火を拭き消す。そして、空を見上げた。
真円が浮いていた。
深い青とも黒とも呼びがたい不思議な空間にポッカリと一つ。
今日は蒼。
昨日は紅。一昨日は白。一週間前は、たしか黄だった。
一言で月と言っても、日によって違う側面を見せてくれる。普通の人間ならその当たり前さに気が付かない場合が多い。色合いや形、僅かな光の加減。そして位置。それらをすべて彼は理解していた。
彼は普通ではなかった。
「今日は満月か。やけに明るいと思った」
ウィルは、その白い月光に少し目が眩んだ。明るさや白さは形や時間、光線の種類は違えど、どこか太陽に似ていることに気が付いた。
「そうだね、今日は美味しそうな白団子みたい」
突如奥のほうから聞こえたのは、この時間に起きている筈のない人間の声だった。
「………ルナリー」
彼女は、質素な白い寝間着に身を包み、書棚の影から姿を現した。夜間はあまり顔を合わせないので、滅多に見ることのない格好だった。そして、いつも通りの笑顔を浮かべていた。
ルナリーは意外な顔でこちらを見るウィルを尻目に、積み上げられた書物に座らず、書物を上手に避けてウィルを上から覗き込んだ。
「何読んでるの?」
「ルナリーには分からない難しい大切な本」
ウィルがそう素っ気なく言うと、単純なルナリーはすぐにむくれた顔をした。
「……どうせ、分かりませんよーだ」
軽く舌を出して、不満を漏らすルナリーを見もせず、ウィルは言葉を続けた。
「分かるわけないだろ、もうこの世から廃れた言語の本なんだから」
「……え」
「ここにあるのは、すべてそんな本ばかりだよ。ルナリーはもちろん、リックやカインですら分からない本もある」
そう言うとウィルは今まで手にしていた本を閉じると、目の前にいるルナリーを見上げた。
長い髪は軽く一つに後ろに結わかれていた。少しだけほどけた髪が月光に照らされ、銀色に輝いている。その顔は先程とは打って変わり、困惑しているようだった。
「どうかしたかい?」
一秒ほどの軽い間の後、答えが返ってくる。
「うーん、ウィル君が珍しく優しいからびっくりしただけ。でも何でそんな難しい本を集めているの?」
彼女の当惑していた顔も次の質問をし始めると消えていた。ウィルは、表情を変える事なく、問い返した。
「何でだと思うんだい?」
「…………暇つぶしとか、インテリぶってるとか」
にこやかな笑顔のまま答えるルナリーを見てウィルは、苦笑した。いや、それは彼自身に向けられたものなのかもしれない。
「『カイジュ』のためにだよ」
「カイジュ?」
「そう、解呪。この呪われた不死の体から解放されるため。遠い昔の話さ。あの頃は呪いが絶対解ける物だと信じて、世界中の書物という書物を読みあさったよ。どこかの文献にこの呪いを解く方法があるかもしれない。そう思ってね」
ウィルは空を見上げ、その時の月を思い出した。……けれども覚えていなかった。昔の自分は、目の前に転がる書物達に必死だったからだった。
「けれども、結果はこの通りさ。後一歩というところまできても、そこには忌まわしい記録だけしかない。反逆とそして呪われた元凶の記録しか、そこには書かれていないんだよ」
どんなに漁っても、どんな違う言葉でも、それは変わらない事実だけを残し、忌まわしい言葉しか残っていなかった。それがどれくらい続いたのだろう。気が付いたら、目の前には山積みの書物と沢山の知識だけしか手元に残っていなかった。
血に塗れて戦おうとも、すべてをなげうっても、変わることができない。
永遠にこの姿。
目の前の少女のようには変われない。
「ねぇ……、反逆って……」
「ルナリーはルシファーという名を知っているかい?」
「えっと、カインさんが昔教えてくれたけど。神様に逆らってサタンになった天使だって。あれ? 今日来た司祭さんがウィル君のことルシファーって……」
不思議そうに頭をひねるルナリーを見ながら、ウィルはなぜか安心しつつ、不安でもあった。
「ルシファーはボクの一族の名前。ボクは堕天使ルシファーの直系の血を引いているんだ」
「…………ウィル君が?」
その問いに彼は無言で頷いた。
「ルシファーは神に取って変わろうとし、多数のエンジェルを唆すと神に反逆を企てた。けれども神に勝つことができず、同じ天使であったアブデルによって地の底に落とされた。そしてサタンとなり、人間を楽園から追放されるようにと企てた。と、すべての伝承はそこで終わっている」
ウィルはゆっくりと瞳を閉じた。それは今までの人生で知ることが出来た記録を思い返しているかのように。
「けれども、全てそれで済めば良かったんだ。神は、その後一つの命にある呪いをかけた。その命はサタンになる際に捨てたルシファーのかけらだった。そしてその呪いが不死。決して死ぬことができぬ呪い…………」
そう言うと、ウィルは閉じていた瞳をゆっくり開く。そこには赤と青のこの世に有り得ぬ瞳があった。
「この瞳は、証拠なんだよ」
人はその証拠を「呪い」と言った。
それは遠い昔の話。
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