その日は、珍しく良い天気であった。
秋晴れというのであろうか。つい先日まで雨が続き、いい加減黴が生えそうなしつこい湿気が溜まっていたのだ。
片手に沢山の本を抱えた少年は、慣れた手つきで空いているもう一つの手を使い、書斎の最後の窓を開いた。すると、部屋に籠っている湿気を外に誘導するように風が通り過ぎて行く。
「あぁ、黴が生えそうな雰囲気だなぁ」
面倒臭そうに頭を掻きながら呟く少年。そう言いながらも、端の本棚から順々に本を取り出していく。
窓から見える空は、青が僅かに白く霞んでおり、夏の澄み通ったあの青々しい空はもう何処にもない。だが受ける陽射しは、どこか柔らかでホッとさせるような感覚を与えてくれる。
僅かに涼しさを感じさせるその風は、これからやってくるであろう冬の訪れを予感していた。
風は白いカーテンを静かに揺らし、薄めの布は緩やかなカーブを描く。
落ち始めた落葉樹がカサカサと音を立てて木々から、書斎へと風を伝って入ってくる。
静かな日常。
しばらく経てば、世界はまた冬という全ての眠りにつくのだ。
目の前で聞こえる鳥達の鳴き声もいつかは眠り、春を待つのだ。
彼は本を取り出す手を休め、側にあった小さなテーブルの上に片手にある本たちを置いた。
「あ、いたいた〜。ウィルくーん」
突然開きっ放しになっているドアから、一人の少女が顔を出した。
蒼みがかった長い髪が、通り過ぎる僅かな風に揺めく。
少女は、外見上から判断して十六、七歳くらいであった。長袖の白いブラウスに、焦げ茶色の温かそうなスカートを着ている。
少女は少年の方を見ながら、スカートを両手で掴み不満そうに口を尖らせている。
「もう、酷いよ! 冷蔵庫の食料はもちろん、戸棚の缶詰すら残っていないんだもん。犯人はウィル君でしょ!」
目の前の少年を指差しながら、睨み付ける少女。
少年、ウィルは心底呆れた顔をして、本の埃がついた手で頭を抱えた。いや、抱えざるを得ない状況であった。
「………この間、ルナリーが食っただろうが。夜中にお腹空いたとか言って、戸棚に頭を突っ込んで、缶詰を十缶ほど開けたのを忘れたのかい? 冷蔵庫だって昨日の夜中に荒らし回ったくせに」
ウィルがそう言うと、ルナリーと呼ばれた少女は頭を抱え、白く細い指を顎に当てながらしばらく考え込んだ。
それを黙って見つめる、ウィル。
窓の外では、そろそろ南へ飛ぼうとする渡り鳥の声が僅かながら聞こえてきた。
カサカサと音を立てて、書斎の床で転がる紅い落ち葉。
「…………あ」
ルナリーは、手をポンと叩くと同時に気の抜けた声を漏らした。
そして、何処かひきつった微笑みを漏らしながら、ウィルの側までトコトコと歩み寄ってきた。
「………お手伝いしよーか?」
「遠慮しとく」
明らかに猫なで声だと分かる声で微笑むルナリーに向かって、ウィルは素っ気ない返事を返した。
「お手伝い……」
「ご遠慮」
「お手伝い……!」
「遠慮!」
「お手伝いするの〜!」
「あっちいけっつーの!」
書斎に並べられた膨大な本棚に囲まれながら二人の怒鳴り声が響く。
ルナリーの微笑んでいた笑みも段々引きつった微笑みに変わり、最後にはほとんど怒っている顔になっていた。
業を煮やした彼女は、すぐ側のテーブルに積み重ねてあった本を乱暴に一冊手に取ると、窓際に歩き出す。
そして、
「むぅ……!! 人の好意を素直に受け取ってよね!」
そう言いながら、窓の外に本を突き出した。
掌サイズで紅の装飾がされた本は、白く光輝く太陽の光の元に照らされる。
真下は、見渡す限りの雨のせいで地面が緩んでいる庭。
書斎の端まで逃げていたウィルは、慌てて駆け寄ってくる。
「あーっ! そ、それは『Red tint』!? ま、待ったぁぁっ!!」
そう言いながら、ルナリーの持つ本を奪おうと必死で手を伸ばす。だが後一歩というところで背が足りない。
ウィルが背伸びしてもルナリーが背伸びをすれば、また彼の手から本の距離が遠くなる。
「……ぐっ」
それに対してルナリーは優越感に浸った表情で、ニッコリと微笑む。
そして、今までで一番はっきりした口調でこう言った。
「お手伝い♪」
これで断ったら……。
それを考えただけで、ウィルは酷い寒気と恐怖に襲われた。
そして……
「…………わ、分かった」
承諾した瞬間、意味のない戦いに負けた悔しさと酷い疲労が彼に押し寄せてきた。
そして目の前では、窓辺に座りこんだまま嬉しそうに両手を挙げて喜ぶルナリー。
「ねぇねぇ、何をやればいいのかなぁ〜」
そう言いながら、彼女は目の前のウィルの両肩を掴んでユサユサと揺らす。
その気分の変わりように半心呆れ返りながらも、彼は大のお気に入りであった『Red
tint』を救出しようと試みた。
移り気な彼女の気分を損ねないように、極力自分のプライドを捨てて、優しく優しくそぉっと語り出すウィル。
「その前にだね……、………………本………るな……りぃ」
その時気が付いた。嬉しそうに両手に手を当て、微笑んでいる彼女の手の中に本が何処にも無いことに。
慌てて、電光石火のごとく窓辺に体を乗り出し、下を覗き込むウィル。
下から見える整理された花壇の側には、無情にも泥に塗れた赤い何かがあった。
「……………ほ……ん。ボクのおきに……いりがぁ……」
彼は茫然自失とした表情で泥水に浸かり、泥に塗れた『Red tint』という本を見下ろしていた。
そして、それに追い討ちをかけるように……
「………あわわわわ〜、落ちちゃった。うわっ、ドロドロ〜」
全然慌てていない口調で、半開きの口を軽く右手で押さえながらルナリーは言った。
とどめだった。
ウィルは、そんなルナリーを横目で見つめた。その瞳は一瞬にして生気が抜けていた。いつもは宝石のように透き通った赤い右目と青い左目のオッドアイは、どこか濁っているようにも感じる。
もはや彼女に何も言う気力も無く、黙って書斎から出て行った。
「あ、待ってよ〜!」
何一つ事情が飲み込めていない彼女は、そう言いながらウィルの後を追った。
その時窓辺から見える玄関先に、黒い人影が立っていることに誰一人として気が付くものはいなかった。
書斎から出てきたウィルは、肩を落としながら萌黄色の絨毯の敷かれた二階の廊下を歩いていた。
どこかその足取りは重かった。
細い廊下を抜けると、一階への吹き抜けがある大広間が広がった。天窓から、柔らかな光がゆっくりと零れ落ち始める。目の前の一階、そして玄関へと通じる階段へ光の道を作るように、一段一段丁寧になぞる。
ウィルは手すりを伝いながら大階段を、ゆっくりと降りる。
「おや、坊っちゃん。どうなされましたか?」
カラカラと陽気な音をたてて、一匹のスケルトンが沢山の洗濯物を抱えて階段下に立っていた。
毛すら生えていない空洞の頭蓋骨には、可愛らしいチューリップの刺繍がされてある白く清潔な三角布巾をつけていた。
そんな死臭漂う彼の体は、真っ白に漂白された洗濯物のように白く美しかった。
ウィルはその声にゆっくりと顔を上げる。
その顔は、目の前のスケルトンよりも死相漂っていた。
「………いろいろ……とね、リック……元気そうだね」
どこか人生に疲れたような台詞を吐きだすと、また一段一段階段を降り始める。
「……あぁ、そうだよ……。ルナリーが……あの疫病神が誰かに似ているかと思えば、あれだよ」
ブツブツと独り言を呟くウィル。
洗濯物を抱えたスケルトン、リックはまるで鳥肌が立つような感じで骨をカラカラカラカラ………と鳴らしながら恐ろしそうに呟いた。
「坊っちゃん……、怖すぎです」
本業のアンデットに言われては、どうしようもない。
そんな事には全く気が付かずに、ゆっくりと幽霊のように音も無く階段を降りていくウィル。
そして、最後の一段をゆっくり踏んだ瞬間、怯えるようにリックはゆっくりと道を譲った。
「………あの疫病神二号め」
擦れ違う瞬間、恨みがましい声でそう言ったのが彼にははっきりと聞こえた。
そして庭先に通じる玄関の前まで来る。
しばらくの間、彼にとって残酷であろう本の末路を見届けるか迷っていたウィルは、意を決してついにゆっくりと片方の扉を開く。
木製の重厚な両開きの扉は、隙間から光を取り入れながらも音を立てて少しずつ開いてゆく。
そこにはお気に入りだった本の末路では無く、背の高い黒い人影が目の前に立ちはだかっていた。
「やぁ〜!」
その人影はこちらに気が付くとにこやかに微笑ん……
バタンッ!!
「……………」
無言で勢いよく扉を閉じるウィル。そして、扉に背中を張り付けると足元に出来る限りの力を込めた。
その背後では、不思議そうにリックが首を捻る。
「坊っちゃん?」
「いいか、今日は外出禁止! 何があっても、決してこの扉を開くな!! ルナリー! 今日のことは大目に見てあげるから、絶対に開くなよ!!」
「……へっ、あ、……うん」
二階の吹き抜けにいるルナリーは、顔を引きつらせて怒鳴りつける彼に驚きながらも、返事を返す。
その返事に満足したように、ウィルは額の汗を拭い、ふぅと息をついた。 その時であった。
「……あ?」
ウィルの足元の力によって、固定されていた扉が大きな音を立てて勢いよく開く。
扉は新品の蝶番を外しそうな勢いで、そのまま全開に開いた。
ギィギィ……。
そんな苦しそうな音を出す扉は百八十度に開いており、壁と重厚な木製の扉が今にもくっつきそうであった。
そして全開に開かれた扉の前には、背の高い全身黒づくめの人影が立っていた。
その人影は、目の前に向かって素早い動きで片手を上げた。
そしてフードから覗く口元から、低めのアルトの声が響く。
「やぁウィル、元気かい! 僕は元気だよ〜」
「………誰?」
気が付くと目の前には、長い髪を靡かせた一人の少女が不思議そうにその人影を見ていた。
そして、その横には同じように不思議そう(あくまでも予想)に首をより傾げたスケルトン。
目の前の人影はスケルトンの真似をするように同じ角度で首を傾げ、軽く顎に手を置いた。
「………あれ〜、ウィルは?」
「…………ここだよ、この疫病神」
扉の軋む音と共に壁と扉の間から声がした。
三人がそちらに注目すると、そこには真っ赤になった鼻を押さえて、こちらを殺気混じりで睨んでいる一人の哀れな少年の姿があった。
いや正確にいうと、目の前に佇んでいる黒い人影にであった。
「ウィルは元気そうだねぇ〜。親友として嬉しいよ」
「………どこが、誰が、親友だ」
「僕〜♪」
にこやかに話す人影に対して、ウィルは毒づきながら、その瞳をより赤く青く輝かせた。それはさながら、獲物を狙う猫のようでもあった。
「……ねぇ、この人誰?」
疑問の声がしたのでそちらを向くと、先程から不思議そうに黒い人影を見つめているルナリーがいた。
黒い人影はそれに気が付くと、にこやかに口元を歪め、ゆっくりとフードを下ろし、暑そうな黒いマントを脱いだ。
「ふぇ………」
「ほおぉ……」
その無駄のない動きに、腰まである髪の毛が生きているように緩やかに靡かせた。マントを翻す瞬間、一本一本黄金を薄く引き伸ばしてできていそうなその美しい髪は、天窓の光の反射を受け、下の黒い服に映えてより一層光輝く。その光加減によっては黄金そのものであった。
何より驚きだったのは、その青年の美しさであった。
神々が丹精込めて作り上げた最初の人間とは、きっとこんな感じであったであろう。普通の人間には、決して有り得ないはずの一部の狂いもない左右対称の顔形。海をそのまま削りとって作り上げたような、純度の高い瞳。そこには冷たさや凍り付いたような感覚は無く、どこか優しくなれる温かさを秘めていた。
女性的な美しさと男性的な強さを秘めた、そんな青年であった。
端整な細い手をルナリーとリックに差し出し、彼はにこやかに微笑んで歌うように言葉を紡ぎ出した。
「初めまして。僕は、ウィルの親友のカインと申します」
夏場よりかは幾分か漏れる光の弱くなったテラスで、彼は琥珀色のお茶を一口啜った。
「はぁ〜、平和だねぇ」
そんな青年の目の前には、ウィルは憮然とした表情でルナリーは好奇心あふれる瞳で木製の椅子に座っていた。
「………で、何の用事なわけ。この疫病神」
ウィルは刺々しい口調で青年、カインに言い放った。
「酷いなぁ、昔ちょっと色々あっただけで」
全然酷そうに感じない口調で青年、カインは文句を言った。
そんな彼を睨み付け、ブツブツと呟いた。
「…………あれが『ちょっと』ねぇ。くしゃみ一つで呪法を暴走させてボクの屋敷ごと吹き飛ばしたりとか、前科持ちの人間が……。あの中にあった本、大半が読んでいないものだったのに。特にあの……」
他にも涙ながらに何か呟いているようだが、カインは気にも留めずに側にあるクッキーを摘もうとした。その時、何か思い出したようにその手を止める。
「……あぁ、そうそう、眼鏡眼鏡」
そう言いながら、屋敷の扉を全壊してやっと持ち込んだ直径五メートルの風呂敷包み(彼の手荷物)から一つの眼鏡を取り出した。
レンズの分厚い牛乳瓶眼鏡だった。
芸術ともいえる美麗な瞳が、分厚い牛乳瓶眼鏡で覆われる。
「あぁ、この掛けごこち……。落ち着くなぁ」
眼鏡を掛けて、幸せをかみ締めるカイン。
「……近眼なの?」
側でそれを見つめていたルナリーが、不思議そうに尋ねた。
そんな初対面の相手を恐れることのない口調と瞳に、カインは軽く微笑むとルナリーの方を向いて答えた。
「えぇ、大事な愛用品なんですよ」
「……でももったいないなぁ。そんな綺麗な瞳なのに」
少し残念そうに、指を口元に当てて呟くルナリー。
涼しげな風が三人の間を通り抜ける。床に届きそうなカインの髪は、それに揺られて踊り出す。木の葉がテーブルの上を掠め、遠くどこかに運ばれるのが見える。
「しかしなんだなぁ。ウィルが女の子と同棲なんて」
からかうようにけれども、どこか嬉しそうに微笑むカイン。
先程までブツブツと文句を呟いていたウィルがそれを聞いた途端、慌てて立ち上がりテーブルを叩いて怒鳴る。
「な、何でこんな疫病神二号となんて!」
何故かその顔はわずかに赤い。
「……むぅ! 疫病神二号だなんて、それなによ!! それ」
それにつられるようにルナリーも立ち上がり、同じようにテーブルを叩く。
こちらは逆に文句盛り沢山の顔付きだ。
そんな二人見て、満足そうにカインは微笑むと「冗談だよ」と言って、二人を宥めた。
その言葉に取り敢えず納得する二人。
だが、まだどこか不満そうに口をへの字に曲げたルナリーを尻目に、ウィルは改めて彼に聞いた。
「今回は本当に何しにきたんだい。ただ、ボクの屋敷の扉を壊しに来ただけでは無いようだけど」
そう言いながら、まだ赤く腫れ上がっている鼻を擦っていた。そして相変わらず、どこか恨みがましい瞳で彼の事を見ている。
そんなウィルの嫌味をサラリとかわし、彼はにこやかに微笑んだ。
「依頼を頼みたいんだ。僕と一緒にある遺跡に行ってくれないか」
その一言。それが変わり始める瞬間であった。
しかし、それに気が付くものは此拠には誰一人としていなかった……。
フェイルの遺跡。四百年ほど前の昔、橋上都市として栄えながらも戦争によって滅びたランスウェル王朝の国の一つである。
橋上都市というだけあって、河川の下に存在し、今は廃墟と化した町並みが崖のような丘の上で確認出来るだけである。
石畳を基盤に作られた道並は今はその面影を僅かに残すのみであり、元は家であった石作りの建物は、戦争と長年の風化により半壊していた。
「ふぇ〜、広いねぇ〜」
そんな人一人存在しない忘れられた都市を見下ろし、一人の少女は呑気そうに呟いた。
丘の上から受ける風は、強い。
何処からか吹き付ける涼しい風が、彼女の青みがかった髪を靡かせている。
だが、ちらほら青に混じり金色があった。
その横には、金色の髪を押さえながらカインが同じように遺跡を見つめていた。
「そうですねぇ。もともとあの場所がランスウェル王朝の要でしたし。あそこの魚料理は絶品でした。ねぇ、ウィル」
カインは懐かしそうにウィルに話を振る。だが、ウィルはそれを完全に無視して、白銀の杖を持ち直した。
「………ほらっ、いくぞ。ルナリー。依頼料の本たちが僕を待ってる」
ウィルは丘の切れ目の崖下を見ながら、右手をルナリーに差し出した。
だがルナリーはそれを全く聞いておらず、寂しそうに口元に指を軽く当てていた。そしてウィルの後ろには、「酷いなぁ」と呟きながら同じように寂しそうに指を口元に当て、彼を見つめる金髪の青年が一人。
「美味しい魚料理かぁ……。でもリックは留守番……ぐすん」
ルナリーは、屋敷に留守番として置いてきた料理が美味しく気立ての良いスケルトンを思い出した。
「…………」
無言でルナリーの手を掴むと、自分の方に引き寄せる。
「わわわっ」
いきなりの事にバランスを崩し、ウィルの方に倒れ込むルナリー。
そんな事などお構いなしに、ウィルは白銀の杖を軽く一振りする。そして下まで何百メートルくらいある崖から飛び下りた。
本当ならば重力に従い急降下するはずなのだが、ゆっくりと黒いマントを靡かせ彼とルナリーの体は降下していった。
そしてその隣には同じようにゆっくりと急降下するカイン。
彼等には、横から吹いてくる風の影響はまったく無かった。
ただ花びらがゆっくりと地面に落ちるように、三人は崖下の遺跡への階段へと下降していった。
入り口の上り階段とウィルのブーツが触れ合った瞬間、重力が二人の体に戻る。
「便利だなぁ、それ」
ルナリーは白銀の杖を見つめながら、羨ましそうに呟いた。
「そんなものかね……」
そう言うとウィルは、白銀の杖を肩に置いてトントンと規則正しいリズムを打った。
「だってお引っ越しする時便利だとおもうんだけど……」
「別に君の生きている内は、引っ越しはしない」
「そんなぁー」
「引っ越ししたいわけ?」
「うん。引っ越しの準備とお嫁さんが私の夢だったんだ」
「…………それはご結構な事で」
ウィルとルナリーがそんなやり取りを交わしている間に、地面に降り立ったカインは、遺跡への上り階段を半分ほど上っていた。
それに気が付いた二人は、会話を中断し慌てて走って追いかける。
ようやく彼に追いついたのは石畳の階段をすべて上り終わった後であった。階段を上ると見渡す限りの廃墟が広がった。
丘の上からでは決して見る事の出来なかった、細かい建物のひび割れに石の形、質感。この遺跡では密度の高い石を組み合わせる事で建物を作っていたようだ。
太い円柱が天井を支え、その隙間を通れるように柱の間隔がどれも一緒であった。そう、それはこの国を治めている教団が今でも使っている建築方法であった。
主に神殿や礼拝堂などの神聖な建物に、その技術は使用されている。
「………懐かしいな」
ウィルは建物の柱にそっと触れる。
固く冷たい感触が何百年も変わらない大きさの手から伝わってくる。
変わらないと感じる事が必要以上に懐かしさと悲しさを覚えさせた。
このフェイルを訪ねたのは、この場所の全盛期であったあの頃から、どれくらい経っていたのだろう。
今では滅び去った町。
けれども、自分の中のフェイルは全盛期の頃のままであった。
年月の経過は、これほどまで世界を変えてしまうのであろうか……?
「ウィルくーん!! 置いていっちゃうよぉ」
その声にはっと気が付くと、遥か先にルナリーとカインの姿があった。
「あぁ」
そう返事を返すと、柱に付けた手を離し彼はその場所を後にした。
そして、また誰もいなくなった場所。触れていた柱は彼の温もりを残したまま、また眠り始めた。
次の訪問を願って。
「……これがボクを呼んだ理由って訳かい、カイン」
フェイルの遺跡内の中央神殿。その祭壇を目の前にして、三人は立っていた。
目の前には祭壇をスッポリと隠す巨大なストーンゴーレム。材質はこの神殿と同じ石では無く、砂岩と呼ばれる砂粒が積もって固まってできた岩石であった。
「なんというか、昔の教団側の神の祝福を受けているらしく、僕みたいな魔や闇専門の呪法や魔術は効かないようなんだよ。というか、もう一年ほど挑戦しているけど、逆に近付くだけで神聖な力で消滅させられそうになっちゃうんだ。ウィルなら、神に祝福されたネクロマンサーだしね」
「消滅してしまえ」
「あ〜、酷いなぁ。大切な親友を見殺しにするのかい」
全然悲痛そうでない声でカインは言った。
「誰が親友だ!」
ウィルはカインに向かって怒鳴り散らすとルナリーに向き直った。
ルナリーは、好奇心盛り沢山であちらこちらを覗いて回っている。放っておいてもたいして害は無いだろうと判断し、彼はカインを改めて見つめた。
いつのまにかカインもまた、ルナリーを見ていた。
ルナリーを見る表情は先程のお茶らけた感じとは違い、真剣な顔であった。
不思議には思ったが、ウィルは敢えて口には出さなかった。
ルナリーがこちらに気が付いたらしく焦げ茶色のフレアスカートを靡かせ走り寄ってきた。
ウィルはそれを一瞥するとカインと目を合わせた。
「………ウィル」
呼ばれた彼は、無言でカインの後ろを向いた。
そして
「……さて、働きますかっ!」
ウィルはそう宣言すると、自分の背丈の二倍もある白銀の杖を構えた。白銀の杖は柱の隙間から零れ落ちる太陽の光に照らされ、鈍く輝く。
呪われしネクロマンサーの杖。遥か昔にある錬金術師が悪魔に魂を売り、純度の高い白銀に人間の生きた魂魄を混ぜあわせた忌まわしき錬金加工物。
天井までそびえ立つストーンゴーレムを捕らえる、炎と水の呪われし瞳。その瞳は、鋭く獲物を逃さない獣であった。そして、僅かに余裕を潜ませている。
彼は小さく含み笑いを漏らす。神殿内に入り込む風が、彼の黒いマントをはためかせる。
「あんなに大きいんだもん……。ウィル君潰されないよね」
彼の後ろから、心配そうな声が聞こえた。
だが彼は、その声に反応して振り向いたりはしなかった。彼の瞳は、目の前の敵を捕らえて離さない。
その態度でますます不安になって、ルナリーはカインの黒いマントをぎゅっと掴む。
カインはその感覚に気が付くと、神殿の天井を見上げた。
天井全体に広がる楽園の壁画。色とりどりの顔料が使われているそれは、楽園にとどまる事を許された神々と天使たちの姿が描かれていた。
それを彼は『偽物の幸せと幸福』である事を知っていた。
そして、偽善である事も。
これを教団が聞いたらどう思うだろうか。きっとこの無礼な言葉に憤慨して、自分は即刻縛り首である。
そしてウィルの『存在』も、彼等教団にとっては邪悪なものでしか無いのである。
「大丈夫ですよ………、ウィルは」
彼はゆっくりと顔を下げてルナリーの方に向き直ると、彼女にその自分の確信を伝えた。
「……うん」
僅かに迷いはしたが、それに対して返答を返すルナリー。
それにカインは満足そうに微笑み、頷いた。
そして、ウィルを見やる。
ウィルは、目の前の空中に杖の先端で軌跡を描き始めている所であった。
杖で描いた軌跡は仄かな光を発し始める。その光は時間が経つにつれて、強くなっていく。
ストーンゴーレムは、その動きに反応するように彼に突進をかけようと走り出す。規定距離内の動くものに反応するように出来ているのだろう。それに構うこと無く、ウィルは複雑な軌跡を描き続ける。
少しづつではあるがそれは確実に何かの紋様を示し始めた。
そして最後の大きな円を描いた瞬間。
それは輝き出した。
仄かな光の線が急激に強い光に変わり、いつしかそれは放射状に輝く。
「変ワラヌ世界ヲ求メン」
それは、神に祝福されしネクロマンサー。
「滅ビ 我ガ手ニ 司ラン」
たった一人の一族の証。
そして失われた何かを求める証。
「キエヨ 惰性ナルモノ!」
杖を前方へ突き出す。
それに呼応するように光はウィルを包み、ルナリー、カインを包み、最後にストーンゴーレムごと神殿全体を包み込んだ。
その白い世界の中、ジュワッと言う連続的な消滅音が聞こえる。そして、大量の砂が零れ落ちる音。
光は強く、そして何よりも純白で美しく輝いていた。
光はゆっくりと縮小し始め、ルナリーはそれを感じるとゆっくりと目を開いた。
そこには青年がいた。
その瞬間、消滅音も転がる音も一瞬にして消え失せる。
そこだけ外界に切り離されたような、静寂の空間。
初めて、ウィルとリックと出会ったあの日に見た青年。
目の眩むような白い光の中黒いマントを靡かせ、左手に白銀の杖を持ち、こちらを見つめている。
右目は、終りを意味する夕焼け。
左目は、始まりを意味する青空。
オッドアイの切れ長の瞳は、あの時と同じように憂いを秘めている。
茶色い髪の毛はゆらゆらと風によって舞い上がり、白い光によってより美しく感じる。
(………誰?)
そう言おうとした瞬間だった。光が一瞬だけ強く輝くと共に、すべての音が自分の中に入って来る。
そして光が完全に消滅した先には、少年がいた。
「あ、あれ?」
「………なんだよ、こっち見て」
不審そうにルナリーに呟くウィル。
完全に砂の山とかしたストーンゴーレムの目の前に立っていたのは、ウィル一人であった。
そして呆然と立っているルナリーとウィルを横目で見ているのは、カインであった。
悲しい。眼鏡を通して僅かに見える海の瞳はそう語っていた。
「あ、何でもないの。ほらほら、早く行こう!」
ルナリーはウィルに駆け寄ると、ポンポンと頭を叩いた。
「……何だっていうんだ?」
「何でもない、何でもない。無事で良かったよ」
どこか複雑に入り組んだ顔でルナリーは微笑み返した。
ウィルはしばらく不思議そうな顔をしていたが、カインがこちらに寄ってくると今の状況を思い出したように祭壇の方へ向いた。
「まぁ………いいか。……さて、行きますか」
そう言いながらルナリーの手を引っ張る。
「……うん。カインさんもいこっ!」
そう言いながらカインに向かって手を振る。
二人は祭壇の上で止まっていている。
カインは、それに答えるかのように少し歩調を早めた。
そして、ルナリーの差し出した手を掴んだ瞬間だった。
ガタンッ! そんな音と共に、ルナリーとカインの立っている祭壇の床が突如抜けた。
「なっ!?」
足元を失い、ルナリーとカインは奈落の底に突き落とされる。
ウィルの手はルナリーの手を掴もうとしたが、一足遅く宙を撫でただけであった。
一瞬の事であった。二人を飲み込んだ祭壇の床はバタンと扉を閉じる。
床を破壊するためにウィルは、白銀の杖を構えて軌跡を描こうとする。
だが後ろから、ガコッという音と共に地響きが聞こえてきた。
それを見た瞬間、ウィルは苛立ちと焦りで小さく舌打ちをした。
「……よりにもよって、こんな時に」
ゴーレムであった。
いつのまにか、先程とまったく同じタイプのゴーレムが、祭壇の前にずらりと並んでいる。
標的は祭壇の上にいる存在。
「………くっ」
そう言いながらウィルは床下からゴーレムたちに目線を移し、構え直した。 その瞳の余裕の色はもうどこにも無かった。
光はない。
暗闇の中、時々ではあるが水滴の零れる音が聞こえる。
深い闇と冷たい空気に晒され、彼女はゆっくりと目を開いた。
「………うぅ」
彼女はぼんやりとした頭に手を当てると周りを軽く見回した。
ほとんど何も見えない。あるのは冷たい闇。
(あぁ、祭壇の床下から落ちたんだっけ)
静寂に包まれたこの世界には、ルナリー以外の人の気配は無かった。
背中に当たる壁は僅かに湿っており、そこから冷気が伝わって来る。
段々と目が暗闇になれて来るにつれて、その場所の全貌がぼんやりではあるが見えてきた。
どうやら彼女がいるのはどこかの回廊らしい。遥か先の闇からはどこからか冷たい風が吹き付け、彼女の体を冷たく凍らせる。
両手を抱き、寒さから凌ごうとしたときであった。
左側の回廊から青白い光が漏れる。そして、カツッ……カツッ…という靴音。
口元をつぐみ、音を立てないように体を凍らせるとルナリーはゆっくりとそちらの方を向いた。
「おや、おはようございます」
それは、闇の中にその黒ずくめの体を溶け込ませ、掌に青白い鬼火を浮かばせていた。
「カインさん……」
ルナリーは小さな声でその名を呼んだ。
カインは、それに答えるように優しく微笑むとルナリーの前まで近寄り、その白い手を彼女の目の前に差し出した。
ルナリーはそれに掴まり立ち上がると、そのままカインの手からマントへ手を移動させる。
「……お化けは苦手なもので」
上目遣いで見上げるルナリーに対して、カインは「いえ」と小さく呟く。
そしてカインは上を見上げると困ったように頭をかいた。
「落ちてきた穴はもう塞がってしまって、他に出口を探すしかないようです」
そして彼がやってきた方向とは逆方向に、二人は歩き始めた。
「せっかくあなたに見せたいものもあったのに……残念です」
鬼火に照らされた薄暗い回廊を歩きながら、カインはそう言った。
「……私に?」
「えぇ……」
ルナリーは青白く照らされた回廊の壁を見回しながら、その物を考えてみた。だが出会ったばかりのこの青年が、自分に見せたい物は全く考えもつかない。今までに交わした会話を少しずつたどって行く。
「……むぅ………、あ! 魚料理かなぁ」
ルナリーは、遺跡の入り口で彼がここの魚料理は絶品であるということを言っていたのを思い出した。
彼は金髪の髪を揺らしながら、含み笑いを漏らした。
「可愛らしいお嬢さんだね。ウィルが気に入るのも無理はない」
意外な言葉に顔を見るといつの間にか、トレードマークのようにもなっていた牛乳瓶眼鏡が片眼鏡に変わっていた。片眼鏡は牛乳瓶眼鏡よりもはるかに小さく、細い金の鎖が繋がっている。
細く開かれたその青い瞳はどこか遥かと奥を見ているようでもあった。
「え………? あ、あぁ、そう言えばウィル君大丈夫かな」
「彼なら大丈夫ですよ。ウィルとは長い付き合いですしね」
「……どれくらい長いんですか?」
どこか不思議そうにルナリーは聞いてくる。
カインはその反応をどこか楽しみながら、言葉を続けた。
「そうですね、もう五百十二年程前までになりますか」
「えっ! ってことは、カインさんは五百十二年以上生きているの!?」
「えぇ、僕は吸血鬼の血を半分引いていますから、新陳代謝が遅いんですよ。ハーフというやつですね。父が純血の吸血鬼、母が人間でした。今はもう神の元に召されましたが……」
「あ……、ごめんなさい」
両手で自分の口を軽く塞ぐルナリー。
だがカインは、それに対して怒るような真似はしなかった。
「いえ、存在あるものすべてはいつかは死ぬのですから」
「………」
「取り敢えず、ウィルとの出会いは敵同士だったんですよ。父の屋敷を買い取ろうとした業者の方が僕を突如住み着いた吸血鬼だと勘違いしたんです。それで急遽ネクロマンサーの彼に退治を依頼したと……」
「カインさん、吸血鬼でしょ」
「そうなんですよねぇ〜。あの時はさすがに困りましたよぉ、こんなにも信仰厚い僕を掴まえて悪魔の化身だなんて失礼な! こう見えても一日に六回聖地に向かってお辞儀しているんですよ」
「………むぅ、それはちょっと違うような」
突拍子もないカインの答えに珍しく困ったように呟くルナリー。
「そうですか……。それでは次は違うことにしましょう」
勝手に納得して、カインは嬉しそうに両手を重ねた。
「まぁ、そういう訳でウィルとは誤解が解けてそれ以来、付き合いがあるんですよ」
「へぇ……」
「だから、彼の事はよく知っています。………彼の家族の事も」
「家族……?」
「えぇ、ウィルの家族は、母親が普通の人間で、父親が不老不死の呪われた一族の人間なのですよ。父親は彼が生まれる前にどこかに失踪。母親は寿命で天寿を全うしました。……彼はそれを看取ったんですよ、少年という姿で」
カインは、只でさえ細い瞳をスッとより細めた。
回廊の先からは、僅かではあるが温い空気が流れ込んで来る。
「……彼はもう千年近く生きています。それでも呪いは晴れること無く、最後の一族である彼にのし掛かっています」
それを聞いた途端、ルナリーはしばし考え込むような顔をしてカインを見上げた。
「なんで不老不死の一族のはずなのに、彼が最後の一族なの? 不老不死ならどこかにウィル君の一族がいてもおかしくない?」
その問いにカインは僅かに表情を曇らせ、口を僅かに噛み締めた。
「どうしてか彼以外の不老不死の人間を聞かないのです。公式では、彼が最後の一族になっています」
その表情にルナリーもそれ以上追及する事はしなかった。
回廊はいつの間にかに上り坂になっていた。そして少しずつではあるが、遥か先から光が漏れ始めてきた。
靴音を狭い回廊に響かせながら、心無しか自分の歩くペースが早くなっている事にルナリーは気が付いた。
不老不死の事、そして家族の事。必要の無い時以外は、決して彼が口にしなかった言葉。
彼女はウィルの家族について、気が付くことはなかった。普通に考えれば家族がいることくらい分かるだろう。だが、屋敷の中で、一度も彼以外の人間がいた痕跡は残っていなかった。
ここで彼がずっと一人で暮らしていたと言っても、疑いもせずに信じ込んでしまうだろう。
もしかしたら、母親が亡くなった後に此拠に来たのかもしれない。
……それすら、分からなかった。
彼一人の世界だった。
いや、彼一人しか居ない世界だったのだ。
ルナリーは下を向いていた顔を上げ、回廊の先を見つめた。
百メートルほど先に、淡く零れる白い光が目に入った。
どうやら、そろそろ回廊の出口らしい。
(………けれど、ウィル君には)
迷える彼の魂に出口がない事を……、彼女はここで改めて悟った。
帰るべき場所も逃げる場所も失ったそんな彼の一面を聞いて……。
回廊をぬけたとたん、光が彼女の瞳に入り込んで来た。
暗闇になれていたせいもあり、彼女の瞳が光になれるまでしばしの時間を要した。
そして、チラチラとちらつく目をゆっくりと開くとそこには、大広間が広がった。
天井から広さまですべてが地上にあったフェイルの神殿に酷似していた。ただ違う事と言えば、太陽の光は円柱の柱の隙間からでは無く、四隅にある天井の吹き抜けからであった。
そして、もう一つ。
カインはルナリーに天井を見上げるように言った。
彼女が見上げたその天井には、地上の神殿と同じように巨大な壁画が描かれていた。だが、それは楽園の姿を描いたものでは無く、全く逆のものであった。色とりどりの顔料が干からびながらも形として残っているのは、楽園にとどまる事を許されなかった、十二枚の羽を持つ堕天使とそれを地に落とそうとする光輝く織天使と天使たち。堕天使は、羽を今にももがれようとしていた。
そして、神は傍観者であった。
カインもそれを刹那見上げると、広間の中央へと歩いていった。
そして、広間の中央で立ち止まり、入り口付近で壁画を見上げているルナリーの方を向いた
「『失楽園』ですよ」
その声はとても穏やかで、そしてなによりも静かであった。
「しつ……らくえん?」
唐突な言葉にルナリーはその言葉を繰り返した。そしてカインの前までゆっくりと歩み寄り、彼の答えを待った。
「えぇ、遥か昔の伝承です。まだ天国も地獄も人間も存在しない、本当の意味の楽園の伝承」
そして、カインは自分の真上に描かれている堕天使を指差した。
ルナリーはそれを追うようにして堕天使を見上げる。
堕天使の顔は苦悶と悲しみに満ちていた。そして突き落とそうとする天使の顔も、どこか強くはあれど悲しげであった。
「これが堕天使ルシファーです。ルシファーは神に取って代わり天界を治めようと神に反逆を企てたために、仲間の天使と共に天界から追放されました。そして地の底、後に地獄と言われます、に落とされたのです。そしてルシファーは、後にあの有名なサタンとなります」
「ってことは、悪魔のサタンって元は天使だったんだ……」
「そうです。そして彼を突き落とそうとしているのは織天使アブデル、ミカエル」
「……天使ってもっと可愛い者かと思っていた」
「教団は天使=神の軍隊という認識がありますから。ここも教団の神殿の一つなのですよ。そして、此拠に隠されていた絵は……教団で言う邪悪な絵。教団は、神に逆らった堕天使ルシファーの事を直隠しにしています。そして堕天使を神の敵と見なして、嫌っています。実際この『失楽園』の話を知っているのは、教団の中でも本当に極少数。一握りの人間だけです」
「あ……、あれ? じゃあカインさんは……」
その問いにカインはにこやかに微笑み、口元に人差し指を当てこう言った。
「いえ、僕はしがない巡礼者ですから」
光が零れる。
壁画は今にも消えそうで、吹き抜けから漏れる光の反射によって色が刻々と変化していた。
その中央に小さく佇む二つの影。
一人は織天使ミカエルのように意志の強い瞳をしている青年。
もう一人は、ただの人間の少女。
零れた光は二人をゆらゆらと照らしていた。
光は一番高い位置に存在していた。
あと二時間もすればその光が秋口のこの世界を温かく照らすだろう。
ルナリーは天からの光に照らされた壁画を見ていた。
どうしてか、堕天使の姿を見ているととても悲しくなる。楽園を追放された天使。かつての仲間と戦い、そして地に落とされる。
揺れる光の加減によってその表情が刻々と変化する。同じ表情は二度としない。ただ現実を見ているかのように、それはリアルであった。
そしてカインは、天からの光に照らされたルナリーを見ていた。彼女の瞳は自分と同じ海の瞳だ。
だが、白く純粋で何よりも脆い。それはまさに人間であった。ウィルや自分が持つことを許されない脆い故の美しさ。
いや、ウィルは永遠であり続けなければいけない。
終りのない世界。
さらさらと少女の髪が吹き抜けから落ちてくる風に揺られる。
期待しているのかもしれないな………。
カインはやれやれと肩を下ろし、ゆっくりと口を開いた。
「……聞いておきましょう、君の名は?」
聞かれた少女は神を靡かせながら振り返った。
そしてゆっくりとその名を紡ぎ出す。
「え……、ルナリー。ルナリー・G・アリシオードです」
名前がいい終わるか終わらないかの内に、突然堕天使の部分の天井が崩れ落ちてきた。
かけらが当たらないように、避ける二人。
そして堕天使の顔があった部分から大量の光と見知った顔が一人、顔を覗かせていた。
「……あ! ウィル君!?」
ルナリーが天井に向かって叫ぶと、ウィルはゆっくりと黒いマントを靡かせながら降りてきた。
ゆっくりと床に着地すると目の前にはカインが立っていた。
「……ウィル」
「あぁ、すぐ迷子になるんだから。探す僕の身にもなってもらいたいね」
「いえ、君のお気に入りの黒いマントが砂埃まみれですね。ネクロマンサーの杖も随分汚れていますし」
「…………おとなしく黙ってろ」
図星を言い当てられたような顔をして、ウィルはそっぽを向いた。
その横では、嬉しそうに再会を喜んで微笑むルナリーの姿があった。
「おかえりー」
「……ただいま」
相変わらずの仏頂面ではあるが……、どこかその表情は穏やかであった。
(変わりましたねぇ、ウィルも)
そう言いながらカインは片眼鏡を外し、ポケットから牛乳瓶眼鏡を取り出した。
そしてそれを付けようとした時、あるものが目に入った。
左目にルビー。右目にサファイアが埋め込まれた堕天使の顔を。
「……夢は覚め始めたのかもしれませんね」
そう小さく呟くと、眼鏡でその深い海の色を覆った。
その瞳にはまだ、本来なるべく姿であったあの大人の彼が残っていた。
「で。結局、何だったんだろう」
太陽の光も随分と落ち着いた昼下がり。一人の少年は、仏頂面で二人の疫病神の姿を見つめていた。
「いいですね〜、この艶、質感」
「でしょう! 僕のお気に入りなんですよ〜」
テラスのテーブルを埋め尽くすハニワの群れの隙間から見えるのは、嬉しそうにフェイル橋上都市で手にいれたハニワの鑑定をする、ルナリーとカインだった。
カインは、ハニワコレクターで今回の遺跡もそれが目当てだったそうだ。
依頼料の本に目が眩んで肝心の目的を聞き忘れていたのだ。
そしてウィルの手の中には、……その依頼料の本は何処にもない。
「なんだよなんだよ、ほとんど風化していて本としての原形が残っていないなんて……!」
ウィルは手短にあったハニワを殴る。だが、ハニワは割れる事無く彼の手の甲を赤く晴れ上がらせるだけであった。
「〜くぅっ!」
悔しさと痛みと涙を必死で堪えるウィル。
居間の方から晴れやかな笑顔でお茶を持ってきたスケルトンは、そのウィルの姿を見た途端一瞬にして心配顔になる。
「ぼ、坊っちゃん!? 何かあったのですか〜! ぜひ、このリックめにおっしゃって下さい。骨の髄まで坊っちゃんに尽くさせていただきます」
もはや骨しかないスケルトンが言ってもあまり説得が無いのだが、ウィルにはそれすら気が付く余裕が無かった。
「いいよ、もう」
そう言いながら、半開きの目でお茶を啜った。
カインとルナリーは一通り話を終えたようでリックのお茶菓子をつついている。
そしてカインが気が付いたようにウィルの方を向く。そして………
「しばらく此拠に定住させていただきます〜!」
その瞬間、お茶の味がすべて消え去った。
「え……?」
その『定住』という単語に凍り付くウィル。
「じゃあ、まだまだハニワのお話できる〜!」
「おやおや、いらっしゃいませ。私執事のリックと申します」
「あ、ルナリーちゃんにリック君お邪魔します〜」
そんなウィルを尻目に目の前の三人は話を進めている。
「……段々不幸になっていっているような気がする」
ウィルは、そんな自分の人生を哀れみつつ、空を見上げた。
冬が訪れる
初めての冬が―――――
END |